アポロ11号
ゆず彦だ。
この二日ほどは俺の住む地域は久しぶりに
天気が冴えないと、ジメジメとして洗濯物は乾かないし、気分も晴れない。
キュウリ、ナスなど農作物は多くは不良で値段も高い。
俺はさすがに完全自炊ではない。自炊のほうが財布に優しいに、体にも良いからな。でも野菜が高いと益々家で料理をする気さえ失せてしまう。
全く、早くクソ暑くてもいいから、真夏の太陽を拝みたいもんだぜ。
さて、7月20日が何の日か知っている奴はいるだろうか。
モモ子が俺に教えてくれた。
どんよりとした、雨雲を眺めながらマクドでお茶をしていたんだ。
マクドはマクドナルドの略だ。マックではない。米株のティッカーシンボルはMCDだ。最近まで実はMKDだと思っていた。恥ずかしいので、内緒だが。
お茶、といっても俺はアイスコーヒー。モモ子はホットコーヒーだった。
ガムシロップを俺はコーヒーに投入。
モモ子はホットコーヒーのカップを両手で持つと、まるで初めてコーヒーの香りを味わうようにゆっくりとその湯気を味わっていた。
そんなモモ子がふと、『1969年、7月20日』と言った。
まるきり独り言のようで、俺に話しかけてはいなかったけど。
『そういえば、もうすぐ7月20日だね』
と、モモ子は今度は俺に向かって話し始めた。
一応その日は俺も、モモ子も誕生日ではないはずだ。初めて出会った日でもない。
モモ子の視線が上に泳いでいる。彼女はいつも何か考えながら話すときにはそんなふうなので、俺は声を出さないまま、アイスコーヒーの氷に投入したガムシロップを混ぜるようにカップを左右にゆっくり傾けた。氷のぶつかる音がシャラシャラと心地よい。
『高校1年生の頃に図書館で読んだんだけど、アポロ計画っていうのが、あったの。
知ってる?』
『アポロ計画、うーん?なんか、アポロってなんか覚えがあるような』
『お菓子のアポロって言ったら怒るからね』
真顔だが、全然怒りそうもない様子で、モモ子が言った。
ついつい俺は、口元がニヤついてしまう。
俺はモモ子が怒ったところはまだ見たことがないのだ。
もっと、怒ったり、もっと大笑いしたり、もしかしたら、いずれモモ子の瞳からこぼれるきれいな涙も見てみたい。
ちょっと泣かせてもみたい。
あんまり、我ながらアレなので、こんなことは言えないが。
彼女はいつもほとんど化粧ッ気がない。着ているものも特にどこのブランドとかっていうわけではなさそうだ。
まあ、俺はそもそもそういうことには詳しくないから、実際分からないんだけど。
それでいて、すらりとした手足も、黒目勝ちの瞳も、サラサラの黒髪も、いつも、飛び切りステキな仕上がりなのだ。今日はブルーのTシャツ、薄手の白いパーカー、足首が見えるブルージーンズ、白いデッキシューズ。
特別おしゃれっていうものではないんだろうが、モモ子のいる一部だけが美しい絵画のようだ。
白い靴を履いた足首が美しい。マクドのこの一角が美しい絵画のようだ。
ネックレスなんかの装飾品はおろか、彼女は爪だって生まれたままの状態だ。ピンクのツヤツヤの爪はいかにも健康的だ。そのままが十二分に魅力的だ。マニキュアとかで飾り立てるのはどうかと思う。まあ、そういうのも嫌いではないけれど。デコデコに盛った爪で手料理を作られてもなんか、なあ。
まあ、そんな機会一回もない訳だけれど。
そんなふうに俺は一人でだいぶ脱線して妄想していた。
『NASA、アメリカ宇宙局は、人類初の友人月探査ををしている。1960年代から70年代にかけて人類を月に送り込んだ』
ホットコーヒーを一口飲みこんで、こくりと頷いた。
『アポロ計画では今まで17号機まであったの。有名なのが、7月20日。アポロ11号が月面着陸船を降ろして、実際に人間が月に降りた』
『今でも、その時の足跡や、アメリカの星条旗が残っている筈。今年2019年だから、ちょうど50年前』
『なんか、50年前って聞くと今の俺たちは生まれてないしさ。すごい昔にほんと、すごいな』
『うん』
『今でも、そういえば宇宙ステーションだかにはずっと人がいるんだよな?』
『うん。それもNASAだけど、地球の周回をしている。月にいるわけではない』
『それは、月に行ったわけではない?』
こくりと頷く。
『良くは知らないけど、技術的に月に着陸するのは、地球を周回するのより難易度がずっと高いみたい。』
宇宙戦艦よろしく地球を離れるのはどんな気持ちだろう。
何が起こるかも、これまで誰も経験したことのない、何が起こるか分からないことをするってのは。
とんでもなく、怖いだろうか。でも、結果好奇心というか探求心というかが勝ったっていうことなのかな。
今から、50年も昔、アメリカ人は地球から宇宙への旅を計画して実行していたんだな。
『なんだっけ、アームストロング船長?がこれは大きな一歩だとか有名な一言がなかったっけ。』
『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。』
さらりと、モモ子が答える。別段得意そうな様子でもない。良かった、アームストロングは合っているようだ。良く知らないけど。
『あれっ。月面着陸をしたのが、アポロ11号なのか?』
『そう。』
ふと、モモ子が真っすぐに俺の瞳を見つめる。
彼女はあまりじっくり見つめあうということをしないのだ。
『それからも、月を周回飛行したり、着陸して月面でカラー撮影をしたりしてる。最後に月面着陸をしたのはアポロ17号。月面を宇宙飛行士が車で走った。15、16、17号は月面車を普通に使っているよ。』
『ええ?』
思わず、スマホで検索してしまった。
しっかりカラーで、画像が検索された。うわあ、こんな画像がCGとかじゃないもんな。
『すごすぎで、ギャグみたいで、逆にシュールだなあ。』
『本当はアポロ20号まで計画されていたけど、18号から20号までは予算の関係でキャンセルされたんだって。』
『予算かあ。とんでもなく、カネがかかるんだろうな。うーん、やはり何でもカネ次第なのか。でも、予算以前に技術とかそもそもそんな計画を立てるっていうことすら、50年前の日本では考えもつかないんじゃないかな。』
『アポロ計画でかかったのは、現在の価値で1350億ドル。大体そのくらいなんだって。』
凄すぎて、よくわからないな。未知のものにそれだけ予算を割いたってだけでもう、やっぱり日本とはスケールが違う。
『でもね、事故もあって。アポロ1号は発射台での訓練中に火災が起きて飛行士3名が亡くなった。』
視線をわずかに落としてモモ子は続けた。
『1号で、か』
モモ子はこっくりと頷く。
『初号機でそれじゃあ、それ以降の宇宙船に乗った飛行士はとんでもない命知らずなのか、英雄なのかな。』
俺なら、死亡事故後に、宇宙船には乗ることはできないな。
アニメオタクがどうこうではなく、一号機は初号機でいいだろう。
『無人のロケットもいくつも発射している。それらは零号機でいいかもしれないね。』
良かった。モモ子にもエヴァンゲリオンは一般教養の部類のようだ。
『そういえば、なんでアポロなんだろう?』
『ふうん。太陽神アポロン』
『アポローンでもいいかもしれないけどね。アポロ計画、壮大な計画らしい、名前。コードネームだと思う』
『それにしても、モモ子、良くいろいろ知っているな。俺はアポロ11号ってポルノグラフィティのイメージなんだよな。』
モモ子からアポロ計画と言われて、お菓子のアポロではなく実はこっちのイメージが先行していた。俺が10代の頃の歌だ。
『ねえ、ゆず彦さん。天気予報で、例年にはそろそろ梅雨が明けているのに、今年はまだ明けてない』
『でも』
一呼吸空けて、モモ子が続けた。
『雨でもいいから、遊びに行こう。私のアパートがある街の図書館で宇宙の特集コーナーがあるの。小中学生の夏休みの自由研究とか向けみたいだけど、結構面白そうなの。 図書館に行って、また、マクドでお茶して。そのうちにアポロンのご機嫌が早く良くなるかもしれない』
ああ、そうか。モモ子はこの日、このことを言いたかったんだ。うぬぼれかもしれないけれど、モモ子はこの日、アポロ計画の話ではなくて。アポロンのことでもなくて、俺と遊びに行きたい、と。もちろんマクドナルドのコーヒーが飲みたいわけでもなくて。
オトコとして見ているのか、オトモダチとしてだけなのかもしれないけれど。
そうだ、これから夏じゃあないか。ギラギラの太陽が、俺とモモコをきっと待ってる。
俺の脳内ではポルノグラフィティのアポロ11号がリフレインしていた。
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